編集長の佐伯さんは場の雰囲”気”や出演者の醸し出すモノを壊さないように、更にはうねりを生み出すようなコーディネートぶりで、相変わらずでした。
田口ランディさんがいたのは大きかった。要所要所での一言二言がぐぐっと引きずり込むんですわ、これ。
そのまま酒でも飲みながらずーっと話を聞いていたかった。
森永さんの30年間波を撮り続けている写真(行為?)について田口さんがうまく説明してたところがずーっと今日もなんかこう引っ掛かっていて。
歌い手の修業で、滝に向かってひたすら声を出すというのがあり、声は嗄れてしまって血反吐も出るそれはそれは厳しい修行だ。でも、ずーっと続けていくと滝が水や音の壁ではなく粒子になる。そうなったときに自分の声が水の壁を突き破る、という。
森永さんの写真もそういうもので、その瞬間にシャッターを押しているんだろうと。
いわゆるあっち側、彼岸に到達している(というか一体となっている?)状態での行為ということだろうかな。
これがどう何に引っ掛かっていたかというと、先日、檀家さんだったか誰だったかに聞いた話でおじいちゃんかおばあちゃんだかは必ずお参りするお寺と神社が決まっていて、たまには他の所に行こうよと行っても頑として聞かない。何かの節目には必ずそのお寺と神社へ。
昔ってこういうのが当たり前で、そんなにあちこちお参りに行ってない。行けるようになった今でもそのご老人は行かない。
このご老人は、俺らがイメージするお参りと違っていて、何かこう、もっと深い所でその対象との繋がりを感じ、一体になって、感応同交していたんじゃぁなかろうか。勿論、そこには深い信仰心もあったんだろうけども・・・なぁんて話をしていた。
この話は同列に扱っていいものなのか? なぁ? でも同じような・・・。
そういえば田口ランディさんは、表現をしているとどうしても大きな力というか宗教的なものを感じてしまうというような事を言っていた 確か・・・。
表現すること(所謂自己実現や自分探しとは別だな)ってそんなに大事なことで必要か?!と最近考え出していたんだけれども、ドブ川や水面をひたすら狂ったように撮り続けたり、どうしても表現したいという衝動がなぜ湧き出てくるのか少し分かった気がした。
あぁ、でも何かうまく伝えられませんな。
ま、しょうがない。
録音あるので聞きたい人はご一報を。
ま、音だけだと何ともですが・・・。
0 コメント:
コメントを投稿